
水道タンク
僕の実家は横浜市の郊外。僕が小学生当時は山と畑しかないような「横浜」のイメージとはかけ離れた土地であった。僕は男3兄弟の長男。とにかく家の中は暴○親父の機嫌によるところが大きく、女の兄弟がいなかったのも手伝ってか、家は居心地のよい場所ではなかった。
平日は、朝早く夜は遅い親父とは顔を合わせることがなかったが、問題は日曜日だった。毎週日曜になると、5時半に親父の起きてくる前、朝5時頃「オイ!逃げるぞ!」と弟を起こし、パン一斤を持って近くの小学校に夕方まで避難していた。
夏でも冬の真っ暗な朝でも・・・。
いくら子供でも真冬に外で1日中時間を潰すのは辛い。最初は3人で、誰もいない早朝の学校の校庭を走り回っているのだが、日も高くなった11時頃にはもう疲れ果てて校庭に座り込んでいた。
その時間になると日曜の学校の校庭は、子供らがお父さんに手を引かれ遊びにくる。僕ら兄弟は寒風吹きすさぶ中、膝をかかえ3人ぴったりとくっついて砂場に座り「寒い、寒い」と震えながら校庭で楽しそうに遊ぶ他の家族の光景を、日が暮れるまで見ているしかなかった。そんな事が毎週のように続いた。
冬の定番は、砂場に穴を掘って三人で風呂に浸かるように並んで入り、寒さを避ける。
当然、学校に遊びにきた同級生にも見つかり「何してるの?」と言われる(笑)
夏は灼熱の太陽を避けるように、体育館の四方の壁を数時間ごと日陰に移動して三人で階段に座り込む。大学病院で何時間も診察待ちをしている状況を想像して欲しい。しかも真夏の外でだ。
冬はじっとしてると辛いが、夏は炎天下を歩き回るのは、いくら子供でも体力が奪われて一日保たない。僕ら三人は体育館の階段に黙って座り込んで、流れる汗が滴り落ちる地面を見つめて、蚊に刺されまくっても、一日中じっと時間が過ぎるのを待っているだけだ。たまに水を飲みに行って、また元の位置に座る。動くのはその程度だ。それが僕ら3兄弟の毎週日曜日だ。
いい加減に学校で時間を潰すのも飽き、また、寒い時期はじっとしてるのは辛いという体験から、今度は日曜になると、僕らが住んでいた高台から遥か向こうの山の上に見える水道タンクや鉄塔を指差して「今日はあそこまで行ってみよう!」と兄弟3人、1日中トボトボと、どこの町にあるのかもわからない水道タンク目指して歩いていた。
別に遠足やハイキング気分ではない、ただ家にいると「やられる」から外にいるだけの話だ。当時を思い返してみても「なんでこんなことしてなきゃならないんだ?」と思いながら歩いていたのは、兄弟3人同じ思いだっただろう。
当時、一番下の弟は幼稚園くらいだったはずで、家にいても親父に殴られるのでついてきた。当然、途中で「お兄ちゃんもう歩けないよ・・」とぐずり出す。手を引き、休み休み、また「置いてくぞ!」と脅しながら、それでも金もない僕らはバスに排ガスを吹きかけられながら、黙ってトボトボと歩いて帰ってくるしかなかった。
夕飯時にやっと家に辿りついても、今度は親父に「どこ行ってた!」と怒鳴られる。
しかし家に居てぶん殴られるよりマシなので、僕ら兄弟は1日中時間をつぶす為、毎週、毎週、朝から晩までどこかの知らない町を目指して歩き、またある時は、拾い集めた瓶を公園の水道で洗い3人でせっせと酒屋に運び五十円百円のお金にしていた。
弟が「歩けない」だの「お腹空いた」と愚図りだすので、お菓子代や帰りのバス代を稼ぐ為だ。
しかし、そう簡単に瓶が落ちてる訳ではない。
当時、酒屋に空き瓶を持ち込むと、一升瓶一本30円。コーラの500ml瓶一本15円に換金してくれた。バス代は当時子供は30円くらいだったか?
歩いていて公園を見つけるとゴミ箱を漁り、空き地では地面に半分埋まってる瓶を見つけて三人で掘り起こす。スコップもないので素手だ。やっと掘り起こしても途中で割れていてボツ。
そんな事はいつもの事だった。
一番困ったときは、冬の夕方真っ暗になり、もう瓶も探せない、弟も愚図る・・・そんな時に酒屋を見つけ、裏にまわると空き瓶がケースに積んである。もう、そのまま抱えられるだけ抜いて、そのまま表の店舗から「換金してください!」と駆け込んだ事もあった。もう泥棒だ。
当時小学生なのに、なんで毎週毎週、弟を育ててないといけないのか?と思ったもんだ。
たまに車で走っていると、遥か向こうの丘の上に建つタンクを見つける事がある。
あの頃の寒さを思い出す。